【負の世界遺産】アウシュヴィッツから学ぶ戦争の悲惨さと命の尊厳

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ポーランド

皆さん、ジョンドブレ!(ポーランドの挨拶)
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皆さんはアウシュヴィッツ強制収容所の話を聞いたことはありますか?

ピンと来なくても「ヒトラー」「アンネ・フランク」「ナチス」という言葉は耳にしたことがあると思います。

これらは全てアウシュヴィッツと深い関わりを持っています。



このアウシュヴィッツ強制収容所は人類史上最大のホロコースト(大量虐殺)が行われた地であり、「負の遺産」として知られています。

1939年9月1日、ヒトラー率いるドイツ軍がポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦が始まりました。この収容所は当初、ポーランド人政治犯を収容するために作られましたが、ナチス政権は時間が経つとともに占領したヨーロッパ各地からユダヤ人などをアウシュビッツに送り込み、少なくとも150万人が強制連行されたと言われています。そこで労働力にならない人や反抗する人たちは無残にも毎日大量に殺されました。

正直、かなりショッキングで痛ましい写真などもあるので心して見て頂けたらと思います。



私達はクラクフからバスでアウシュヴィッツへ向かいました。

行き方はこちら。

【最安】クラクフからアウシュビッツへバスでの行き方とチケットの徹底解説!
皆さん、(ポーランドの挨拶)!プレハネのゆきです。 アウシュビッツとはユダヤ人の大量虐殺が行われた強制収容施設であり、ナチスドイツが残した人類最大の負の遺産と言われています。意外にも、アウシュビッツはドイツではなく、ポーラ...

バスを降りたらまずチケットを購入するべくチケットカウンターへ。

この日は2019年12月30日。
そう、大晦日の前日。

年末でも非常に多くの人が訪れていました。

3時間近く、列に並んでチケットを入手しました。待ってる間、気温が非常に寒く体が冷えるので、ゆきと交互に1人ずつ列を離れて屋内で少し体を温めて戻ってきてを繰り返してました。

これ雨とかだと本当に大変です。

チケットを入手できたので、いざ収容所へ。



収容所へのメインゲート。

ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になる)」

この収容所に連行されてきた人たちは「安心して住める場所に連れて行く」と言われて連れてこられました。

このゲートは「働けば自由になる」、そう信じ込ませるための1つの手だったのでしょう。実際にこの150万人以上が収容されたこの場所から、生きて抜け出せたのは200人にも満たなかったそうです。

周囲には220万ボルトの電流が流れる有刺鉄線が張られていました。

脱出阻止のための鉄線ではあるが、この収容所に悲観した人たちは敢えて鉄線に近づき自殺を図った者もいたそうです。

ゲートをくぐって中に入ると、 沢山の建物が整然と並んでいて住宅街のようです。

この殆どの建物が解放されていて、中はあらゆるものが展示されています。

1939年、第二次世界大戦がはじまりました。

ナチス党党首のアドルフ・ヒトラーの言葉。

「ポーランド語を話す人間は男女関係なく、子供だろうと憐みや慈悲を一切抱くことなく殺す。ポーランド人は根絶し、この地はドイツが支配する」と言ったところでしょうか。

このアウシュヴィッツ収容所には近隣諸国のみならず、旧ソ連やアフリカからも多くの人たちが連行され、収容されました。

なかでもユダヤ人は110万人以上。
賢くて優秀なユダヤ人はいつかドイツの政治的立場を脅かすだろうと恐れていたからです。無知な人間こそがヒトラーにとって都合が良いですもんね。彼はユダヤ人撲滅を掲げていました。

優秀な人はどの時代でもこのような運命を辿ってる方が多く心が痛みます。


多くの人々がこの列車に乗って収容所へやってきました。

長い時間食事も与えられることなく、窓1つないので新鮮な空気も吸えず、体力のない人は収容所に到着した時点で弱っています。

1人1人身体測定や顔色をチェックされて、基準に満たない人は「シャワーを浴びさせる」とウソをつき、そのままガス室送りです。子供や妊婦も即殺です。

ガス室が模型で再現されていました。
1度に1500人以上がガスで殺されました。

実際に使用されたガス缶。

被収容者は持ってきた私物は全て没収されました。
統治するための1つの方法なのでしょう。

安心させるために「全て後で返却する」と嘘をつき、持ち物には1つ1つ名前や生年月日、住所を書かせました。

ぞんざいに扱っていたであろう被収容者の私物が今もこうやって残されているのには驚きました。

義足や松葉杖など。

怪我をしている人は障害者も労働力にならないので、すぐに殺されました。

小さな子供の遺品は胸が痛みます。

日々強いられる悪夢のような労働、そして毎日殺されていく労働力にならない命。

右上の写真は若い女性が我が子を守るために子供を抱きかかえて、自分の背を銃に向けています。

こんな悪夢のような光景ですが、実はそんなに昔の話でもないのです。

アウシュヴィッツが解放されたのは1945年。
ちょうど今年で75年になります。

75年前と言えば、おそらくこの記事を読んでくださっている方のご両親や祖父母が生きてる時代の話になります。

「おばあちゃんが生きていた時代の話」、そう思うとより身近に感じられると思います。



指揮官などの収容者が殺すばかりではありません。同じように辛い思いをしている被収容者が別の被収容者の処分を命じられることも日常でした。

亡くなった仲間を運ぶ被収容者。


収容されると初めに断髪されます。

感染症を防ぐ目的と利益になるのが理由です。断髪された髪は加工して布となり市場に送られます。

袋詰めにされる大量の髪の毛。

ちなみに撮影不可ですが、実際の髪の毛も展示されていました。

収容所で着せられた服。

全員同じ服で全員が坊主頭。
人権もないこの収容所に個性はありません。

それぞれにつけられたナンバーが名前となり、被収容者はそのナンバーで生活します。

廊下には被収容者の写真と名前が飾られていました。

奥までズラリと並び続けます。
これだけの人が無念の死を迎えたのです。

「アンネの日記」で有名なアンネ・フランクもここで2カ月過ごし、チフスを患って病院で亡くなりました。

被収容者たちはこの過酷な生活が故に、収容所に来てから平均2、3カ月で亡くなっていったそうです。中にはたったの4日で亡くなっている方もいました。

自分よりもうんと若い方や「名前、生年月日不詳」と書かれたパネルをみると、あまりにも辛くその人の生まれてきた意義や「存在していたはずの命の儚さや不確かさ」に悲しみを越えた虚無に近い感情に襲われました。



収容所が設立されて間もない頃の被収容者の寝床です。

冷たいコンクリートに藁が敷かれただけです。
ここに大勢の人が詰め込まれて寝ていました。

冬は-20度まで冷え込むこともあり、毎朝目覚めることなく亡くなっていく人もいました。

環境は少しずつ改善されて、3段ベッドが導入されましたが1段につき6人が詰め込まれて人々は身体を折り重ねながら寝ていました。

こちらはアウシュヴィッツ解放前の部屋です。

くる日もくる日もこの地で眠りにつき、絶え間ない恐怖と共に明日を待ちました。被収容者にとって明日を迎えること、もしくはもう命尽きて明日にならないこと、どちらが幸せだったのでしょうか。

地獄のような日々だったでしょう。

一部の被収容者はそんな生活の中でもみんなを元気づけたり、ユーモアある冗談を話したりしながら少しでも命の火が消えないように励まし続けたそうです。



収容所の食事。

朝は奥の黒い液体、昼は手前の腐った野菜で作られたスープのみです。

全く栄養が足りず、餓死していく人も少なくありませんでした。

ここまで卑劣で過酷な環境の中、脱出を図る人は多くはありませんでした。

ドイツ軍の圧倒的な力を前に、殆どの人はそんな無謀なことをできないのです。脱出をはかり、それがバレると脱出犯のみならず無罪の仲間たちも連帯責任で殺害されました。

中には人としての正義を持ち、暴動を起こす人もいましたが「死の壁」に連れてこられて銃殺されました。

死の壁

この壁の前に膝まづかせて、銃で撃ち殺しました。長年に渡り想像できないほどの大量の血しぶきがこの石壁に沁みついているはずです。



このアウシュヴィッツ収容所は国家政治の取り組みだったために、表向きは健全な施設として情報提供されていました。

故に使用されていた大きなガス室は証拠隠滅のために爆破されて残っていませんが、再現されたガス室が敷地の端っこにあります。

弔いと敬意を払って見学します。

このガス室に送られる時も「シャワーを浴びさせる」という口実なので、カモフラージュのために当時はシャワーも設置されていたそうです。

天井に小さな穴があいており、人々を詰め込んだあとはその穴からガス缶を放りなげて殺害しました。

死体はこの焼却炉で焼いていたそうです。
同じ被収容者の手によって1日300以上の遺体が焼かれました。




この収容所に連行されてきた方々の、収容所に来る前の様子の映像も残っていました。

結婚式の様子や舞踏会でダンスをしている様子、幼少期の無邪気な姿などが収められています。

何事もなければ、このまま平和な人生を歩めたであろう被収容者たち。



私はこの一面黒っぽい壁を見たとき鳥肌が止まりませんでした。

墓標です。
この収容所で亡くなってしまった方の名前と生年月日はぎっちりと書かれていました。

1人1人の大切な命、確かに実在した一生懸命生きてきた時間。夢を抱き、家族を思い、必死に耐えて骨と皮になりながら労働した日々。

そんな1人の尊い命が、このたったの1行なのです。

人としての尊厳もなく、「本当に存在していた命」の功績は微塵も称えられることなくひっそりとこの1行だけで命の証明がされています。



結局、このアウシュヴィッツ収容所は旧ソ連が各地の収容所を抑圧し、1945年に解放され約7000人の被収容者が救出されました。しかしその半分は救出後も極度の過労や栄養失調、PTSDによって亡くなってしまったそうです。

ヒトラーは自殺し、初代収容所所長を務めたフドルフ・フランツ・フェルディナント・ヘス
はドイツ敗戦後に収容所で戦犯として絞首刑に処されて幕を閉じました。




「戦争さえなければ。」

私もふくめ、現代人の殆どは戦争の悲惨さや戦争が生み出す悲しみを知りません。

このアウシュヴィッツ収容所は戦争の悲惨さを伝えてくれる場所ではありますが、ほんの鱗片にすぎません。

1つの収容所を切り取ってみただけでも、計り知れない悲しみと多くの「死」で溢れかえっていました。使い捨ての為の死、見せしめのための死、病気や過労による死、飢餓による餓死。


死体の匂いや、耳をつんざくような叫び声、残虐な銃殺や締殺、そしてその死体を運ばされる日々。くる日もくる日も五感で死を感じながらの生活は、人間としてのあるべき感覚を失わせてしまうかもしれません。


あらゆる「死」がここにはあり、人類の過ちを後世に伝えてくれる場所です。

戦争に憎悪を抱いても、どの時代も戦争を生み出すのは人間なのです。

金・部族・土地・名誉などが複雑に絡み合い、国同士の対立を失くすことは容易ではなく、これからも続く永遠の課題かもしれません。

「負の世界遺産」として知られるこのアウシュヴィッツ収容所から、私達は目を逸らさずに学ばなければなりません。

ここは紛れもなく、学びと追悼の地でした。



楽しいだけが旅ではありません。
時には歴史と向き合い、本質を考え、心と対話することも旅の醍醐味の1つだと私は思います。

今回訪れたのはアウシュヴィッツ収容所の中でもほんの一部だけで、全てを見て回ることはできないほど広大な敷地でした。(ビルケナウの方は時間の関係上行けませんでした)

ヨーロッパで近くまで来た方、興味のある方はわざわざであっても是非訪れて頂きたい場所です。



長くなりましたが、お読みいただきありがとうございました。

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