チェルノブイリ博物館で見たもの、原発に殺された命と街。

皆さん、ドーブルィデーニ!(ウクライナの挨拶)
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今回、ウクライナのキエフにあるチェルノブイリ博物館に行ってきました。

1986年、チェルノブイリ原子力発電所4号炉で、非常に大きな原子力事故が起きました。

その被害は甚大で、後に制定されたINES(原子力事故や故障を評価する指標)では最も高い数値であるレベル7の判定を受けています。


世界でこのレベル7の評価がつけられたのはたった2カ所。

1つがチェルノブイリ。
もう1つは日本の福島原発です。


2011年3月11日に発生した東日本大震災で大きな被害を受けた日本、その際に稼働していた福島県の原子力発電所で事故が起きたのです。

ウクライナに来て、同じ原発事故の被害を受けた日本人としてチェルノブイリの歴史を学ばずに素通りすることはできませんでした。


チェルノブイリ博物館の場所はこちら。

私達が到着したのは夕方。
外観は全く博物館らしくなく、大した看板も出ていないので通り過ぎてしまいそうな建物です。

このこじんまりとした扉が入口です。


英語でもチェルノブイリの文字が。

この博物館はチェルノブイリで原発事故が起こってから6年後、1992年に設立されました。



営業時間:10時~18時
    (土曜日のみ17時まで

    ※閉館時間の1時間前が最終入場

休館日:毎週日曜日と月の最終月曜日

入館料:大人10フリヴニャ(100円程度)
    中高生5フリヴニャ(50円程度)
    幼児無料


館内撮影料:20フリヴニャ(200円程)
     (※スマートフォン含む)




チケットを購入し、真っ先に展示されているのは日本の「福島」。

未曾有の原発事故が起きてしまった日本とウクライナ、両国はこの問題を通じて強い繋がりを持っています。

2009年には日本政府が同館に対し、74000米ドルの資金援助も行っています。この援助のお陰で日本語のオーディオガイドが普及したそうです。


展示されているのは福島の除染作業の様子。

明るい未来を託そうとした原発に、多くの未来が消されてしまった何とも悲しく皮肉な写真。

原子炉がメルトダウンした当時、来る日も来る日もテレビでは「直ちに影響はありません」と人体や健康への影響を否定する報道が流れていました。

なるべくクリーンなイメージを与えようとしたのでしょうが、原発の風評被害はとても大きく、東北地方の作物の売れ行きは最悪。今では大きく回復しましたが、未だ完全には払拭されていません。

除染作業に当たった作業員の死や、ガンの発症も多く報告されました。

復興のシンボルである鯉のぼりも展示されていました。


1階のフロアはこの展示コーナーとチケットカウンターのみ。

2階にチェルノブイリに関する7000点もの資料が展示されています。


2階への階段を登り、振り返るとこの光景が見えます。

地名にびっちりと引かれた強烈な赤線。

これは原発事故によって人が住むことが出来なくなり、失われてしまった地名です。

かなり視覚に訴えてくるものがあります。


そして、1部屋目。
ここは「原発事故当日の夜」がテーマの部屋です。

実際の除染作業で使われていた作業着。

そして時計は事故が発生した時刻で止まったままです。

1つ1つの展示物が非常にメッセージ性が強く、既に心が締め付けられます。


奥の方には原発事故に携わった方々の写真。
亡くなってる方も多くいます。

当時の事故は日本の新聞でも大々的に取り上げられていたようです。

北欧3カ国で観測って、ノルウェーとかかなり離れてるのに…。

こちらも除染作業時に着用されていた服です。

こんなに軽装で被爆を防げたはずもなく、後に被爆が発覚しました。

事故発生時はソ連が一帯を支配していた為、現在の沿ドニエストルやベラルーシなどからも多くの人員が駆り出されて除染作業に当たりました。




そして2部屋目。
こちらは事故発生後に焦点が当てられています。

パッと見て少し気味が悪い赤いライトのこのコーナー。

ここにはリンゴの木が祀ってあります。
リンゴの木は「希望」を意味したそうです。

しかしリンゴの木は枝があるだけで、リンゴの実も葉っぱもありません。

そして周りにはこの原発事故で被曝に苦しみ、亡くなっていった方々の写真。

まさにこの木で「希望はない」ということを示しているようでした。

展示物の中で特に目に止まったのがこちら。

こちらは双子のです。

放射線の影響で、頭が1つ、胴体は2つという形で生まれてしまいました。

事故発生後、染色体異常の為に奇形率は3倍以上になったそうです。

放射能の数値を計測していた機器。



館内の至るところにこのマークがあります。

日本政府の援助が垣間見えますね。

第2展示室の最後には再び日本のコーナー。
原爆が投下された広島について多くの資料が展示されていました。

広島・長崎は原発事故ではありませんが、原爆が投下された地。

世界で唯一原爆を投下された日本。
その地に生まれた日本人である以上、原子力の怖さを学び向き合う必要があると思います。

海外に出ると、よく日本のことを聞かれますが、日本人である私達よりも外国人の方が日本の歴史や文化に詳しいとうことが多々あります。その度に自分が情けなく、より自国のことを知ろうという思いに駆り立てられます。



事故が起きて、ゴーストタウンと化したチェルノブイリ。

日本にも原発事故発生後に立ち入りが出来なくなった区域がありますが、自分の故郷に立ち入りが二度とできないと言うのは「故郷を失くした」ということ。

沢山の思い出が詰まった故郷に立ち入ることがもう出来ないなんて、想像しただけでも辛いですね。



そして、最後の部屋です。
ここは「チェルノブイリの未来」がテーマ。

他の展示室と比べるとかなりだだっ広い一室です。


部屋の入口では再び防護服が出迎えてくれます。

この世界地図の黄色い点は原発がある場所です。

原子力を保有している国が想像よりも多くて驚きました。

そして日本はこの小さな島国の中に他とは比較にならないほど黄色い点が多く打たれています。


こちらはチェルノブイリ原発事故が発生した当時、どこまで放射能が飛んだのかが分かる地図。

じわじわと広がり、北欧3カ国まで広がっていたのが分かります。

風向きの影響もあるのか、当時はソ連で発生した事故なのに現ロシアの方にはさほど流れていません。

ソ連解体の時にどうしてウクライナはチェルノブイリ地区を自国に受け入れることを承諾したんだろう。本来、ロシアに持たせるべきだと思うんですけどね、人が住んでいる訳ではないなら尚更。

チェルノブイリに住んでいた子供たちの写真です。

今もご健在の人もいるようです。


子供たちの玩具。

このノアの箱舟に見立てた船はこれからの未来に希望を託す意味を持たせたそうです。



このチェルノブイリ博物館は以上3部屋で構成されていました。

事故が起きたのは1986年。
私自身もこの事故について教科書で知りました。

教科書で知った内容というのは随分と昔に起こった出来事のように感じてしまいますが、自分が生まれるわずか5年前の話です。

そして、その後日本でも原発事故が起きました。


原発事故の怖さをこの博物館や、日本での体験で身を持って知っているはずなのですが一概に「原発は悪」とも言えないのです。

今現在も原子炉は稼働し、私たちの生活の電力を賄ってくれています。

私の地元、鹿児島にも川内原子力発電所があります。
風力、火力、水力に切り替えることも出来るのでしょうが、そこに至らないということは私なんかの素人では分からない複雑な理由があるのだと思います。


恩恵も被害も受けうる原子力。
今後、どのような電力発電が主になっていくのかは分かりませんが、その転換期が来た時にどれだけ知識があるかによって賛同できる発電方法が変わってくるでしょう。

良い悪いの前にまずは正しく知識をつけることが、判断を誤らないための必要な第一歩だと私は思います。



チェルノブイリの事故については、直接チェルノブイリ地区に足を運び現地を見学できるツアーもあります。

キエフの中心地から100キロほど離れた場所にあり、時間もお金(2万円程)もかかりますが、博物館であれば比較的行きやすいと思うので、是非行ってみてください。



この世界一周の旅の中で、アウシュヴィッツ強制収容所と並び、非常に考えさせられる場所でした。


お読みいただきありがとうございました。